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「回天」の誕生から実戦まで

印刷用ページを表示する更新日:2017年5月10日更新 <外部リンク>

誕生までの背景

拡大する植民地(18世紀以降)

18世紀の産業革命以来、産業を急速に発展させた西洋諸国は、市場や資源を求めて世界各地へ進出し、次々と植民地を広げていきました。
第一次世界大戦以降、急激な発展を遂げた日本も、市場や資源を求めて大陸進出を目指し始めました。
その結果、日本はアメリカやイギリスなどと対立するようになり、ついに太平洋戦争に突入することになります。

太平洋戦争の勃発(昭和16年12月8日)

昭和16年12月の真珠湾攻撃で幕が開けた太平洋戦争は、当初、日本軍は有利に戦闘を進めますが、17年6月のミッドウェイ海戦での敗北、18年2月のガダルカナル島からの撤退と、物資の豊富な連合国側からの反撃により徐々に形勢が不利になっていきました。
そうした状況の中で、起死回生の戦法として考えられていったのが、空や水上、水中からの特別攻撃と称した特攻作戦でした。

酸素魚雷から「回天」(昭和18年10月~)

太平洋戦争の戦況が厳しくなる中で、呉市大浦崎にあった特殊潜航艇(甲標的)の秘密基地(通称P基地)で出会った若い青年将校の手により、「回天」の創案がなされることになります。
その青年将校とは、海軍機関学校出身の黒木博司中尉と、海軍兵学校出身の仁科関夫少尉の2人。
このころ、レーダーの登場により艦艇間での戦闘が行われなくなったため、使用されずに倉庫に眠っていた九三式酸素魚雷に二人は着目し、昭和18年の秋、この魚雷を人間が操縦して敵艦船に体当たりする兵器として開発し直すことと、兵器としての採用に向けて動き出すことになります。
その結果、翌19年2月に試作機の開発が開始され、同年7月に試作機が3基完成し、大入(だいにゅう:呉市阿賀)魚雷遠距離発射場で試験運転が行われることになりました。

大入での回天の試験

「回天」を所定の場所まで運搬する横抱き艇を離れていく「回天」参考文献はこちら※2

設置されなかった脱出装置(昭和19年2月~)

「回天」の開発においては搭乗員の脱出装置を設けることが条件となっていました。
しかし、試作機にはその装置は設けられることなく、8月に正式な兵器として採用されました。
その操縦訓練場としては、既に酸素魚雷の試験場があったことと、特殊兵器という機密性の保持の観点等から、ここ大津島が選択されることになります。

搭乗員の募集(昭和19年8月~)

最初の回天の搭乗員の募集は昭和19年の8月から開始されます。
昭和19年8月20日に起案され、8月31日に発布された「海人三機密第三号―六二 特殊兵器要員に充当すべき海軍予備学生選抜並に教育等に関する件甲進」によると 1.選抜要領(イ)には「本要員は志願者より選抜す」 (ロ)には「志願者募集に当りては、別紙説明要旨に依り予め説明を実施し、志願者の了解を求め置くものとす」となっていました。
ただし別紙の備考には「兵器名は示さざるを要す」と記載されています。

募集要項を見る(予科練対象要項・回天記念館展示資料)[PDFファイル/2月29日MB]

大津島基地誕生(昭和19年9月1日)

昭和19年9月1日、大津島に回天訓練基地が開設され第一特別基地隊第二部隊が編成されました。もちろんその中に発案者である黒木博司大尉と仁科関夫中尉も含まれており、当初の訓練搭乗員の数は34人でした。参考文献はこちら※3
その後、募集に応じた搭乗員が増加することで、大津島基地だけでは収容しきれなくなったことなどから11月25日に光基地(光市)、20年3月1日に平生基地(平生町)、4月25日に大神(おおが)基地(大分県速見郡大神村(現 日出町))が開隊します。
最終的に搭乗員の訓練を受けた兵士は1,375名となりました。

 
出身搭乗員数戦没者数
海軍兵学校89人19人
海軍機関学校32人12人
海軍水雷学校9人9人
予備学生210人26人
甲種飛行予科練生935人40人
乙種飛行予科練生100人0人
合計1,375人106人

大津島での訓練(昭和19年9月5日)

訓練期間は、募集要項では概ね3ヶ月となっていました。
その訓練水域は、次の五つが設定されていました。参考文献はこちら※3

  1. 第1訓練水域
    魚雷整備工場前から徳山湾にある蛇島(さしま)に向かって、片道5,000mの直進航路を、潜航と浮上航走を繰り返しながら往復します。これは最初に行われる訓練で、1回だけ実施されていました。
  2. 第2訓練水域
    魚雷発射試験場の南側海面をスタートし、馬島と洲島の南側を通過し、徳山湾入口の灯台を設置した岩塊である岩島との間の水道を通り抜けて徳山湾内に入り、整備工場の前面海域に帰るコースです。
  3. 第3訓練水域
    魚雷発射試験場の正面沖合に浮かぶ野島を左回りに一周するコースです。
  4. 第4訓練水域
    大津島の北端を右回りに回って整備工場の前まで帰る長いコース。狭い所がいくつかある上に、小さい島や岬、水面下に隠れた岩などの障害物が多く、頻繁に浮上、潜入を繰り返して進路を変えながら航走する必要があることから、適艦船が停泊している環礁などに出撃する場合のための狭水道通航の訓練をするには絶好のコースでした。
  5. 第5訓練水域
    実際に潜水艦のデッキに「回天」を取り付けた上で、徳山湾沖で行う発進訓練です。

訓練水域図

初めての訓練事故(昭和19年9月6日)

「回天」の訓練は3基の試作機で始まりますが、その訓練が始まった2日目の9月6日、黒木大尉と樋口大尉が乗った一号艇は、天候の悪化で波が高くなり、これにより俯角(ふかく:物を見下ろしたときの視線の方向と目の高さとのなす角)がかかり過ぎて海底に着底し動けなくなるという事故を起こします。
この事故の発生が夕方ということもあり、遭難場所の捜索が難航したため救助が間に合わなく、酸欠による初めての殉職者を出すことになりました。
その後、「回天」の上部を白く塗装することで、海底に沈んでいても発見しやすくしたことや、前部に取り付けてあるバランスを保つためのタンクに、15m以上潜水した場合は自動的に空気を送り込むことによって浮力を増す装置を取り付けることなどの改良が行われましたが、湾内に投下された機雷や航行船舶と接触するなどにより、さらに13名の方が訓練中に殉職されています。

蛇島写真

左の画像は回天記念館の前庭から蛇島を眺めたもの。右はそれを望遠レンズでアップしたもの。その画像の左に見える蛇島の手前にブイ(実際には緑色のブイ)が浮かんでおり、その右手にもブイ(実際には赤色のブイ)が浮かんでいます。
この辺りは第?T訓練水域の整備工場から4,000mの沖合地点となり、ちょうど海底に沈んでいた一号艇が発見された場所となります。

樋口大尉手帳の事故地点図面

樋口大尉が、沈んだ一号艇の中で自身の手帳に書き込んでいた事故現場の図。参考文献はこちら※4

出撃そして回天戦(昭和19年11月8日~)

「回天」の初めての出撃は、昭和19年11月8日、菊水隊と名づけられた部隊から始まります。
その攻撃目的地は、アメリカ軍機動部隊の前進拠地であった西カロリン諸島のウルシー泊地と、パラオ諸島のコッソル水道となり、そのエリアに停泊中の敵艦隊を目指して、伊36潜水艦、伊37潜水艦、伊47潜水艦にそれぞれ4基ずつ、合計12基の「回天」が搭載されて出撃していきました。
その隊員の中には黒木大尉と一緒に「回天」の開発に取り組んだ仁科中尉の姿もありました。
その後、20年8月8日までに4基地から9の部隊が編成され、延べ153人が出撃し、80人の搭乗員が「回天」とともに戦死していきました。
なお、通常の魚雷による攻撃か、「回天」による攻撃かを選択するのは潜水艦長の判断となり、魚雷による攻撃が可能な距離まで目標艦船に近づけるなら魚雷戦を挑み、近づけない場合は、回天戦を選択することになります。

戦死した搭乗員の内訳
内訳人数
出撃等で戦死された搭乗員87人
訓練時の事故で殉職された搭乗員15人
基地において空襲被弾された搭乗員2人
戦後、自決された搭乗員2人
合計106人
潜水艦で出撃した搭乗員の内訳
内訳人数
実際に回天戦にて戦死した搭乗員(a)45人(a)(b)の合計80人
母艦が未帰還で回天戦で戦死されたか
確認できない搭乗員(b)
35人
出撃以外で亡くなった搭乗員
(再訓練中に殉職)
2人
母艦とともに帰還した搭乗員23人
合計105人

初めての新聞報道(昭和20年3月25・26日)

「回天」による特攻作戦は極秘であったため、作戦が開始されても当分の間、国民には発表されませんでした。
最初に出撃した菊水隊の攻撃結果が公式に発表されたのは、昭和20年3月24日で、その翌々日の3月25・26日には、それを報道した新聞が発行されています。
航空機の特攻作戦である「神風特別攻撃隊」の戦果が、出撃後、数日で行われたのとは対照的でした。
新聞記事を見る(回天記念館展示資料)[PDFファイル/1月21日MB]

基地回天隊(昭和20年3月~)

戦況が厳しくなっていく中、昭和20年の春になると、本土決戦のための準備が進んでいきますが、日本側は当初その日を、20年の夏から秋にかけてと予測していました。
その段階で、既に艦船、航空機と消耗してしまった日本にとっては、海からの特攻に頼ることしかできなく、そのために配備計画されたのが基地回天隊でした。
この基地回天隊とは、敵国が本土上陸してきそうな海岸付近に穴を掘り、その中に「回天」を隠しておき、実際に敵艦艇が近づいてきたら出撃するというものでした。
最初の基地回天隊は沖縄に配備されることになりましたが、「回天」を掲載し、その搭乗員たちが乗船していた第18輸送船は、アメリカ軍の潜水艦からの攻撃により20年3月に沈没し、搭乗員たちも戦死してしまいました。
その後、八丈島をはじめとして四国や九州の海岸に11地点、88基の「回天」が配備され本土決戦に備えましたが、出撃することなく終戦を迎えることになります。

戦果

現時点で分かっている回天戦による主な戦果は次のとおりになります。参考文献はこちら※3
なお、日本側の戦死者は、回天搭乗員106名、回天整備員36名ほか合計145名(訓練中の殉職者、戦後の自決者を含める)で、さらに回天戦に参加した未帰還の潜水艦は8隻で、その搭乗員数は811名を数えます。

 
戦果艦名攻撃隊名年月日
撃沈艦隊随伴タンカー「ミシシネワ」菊水隊1944年11月20日
兵員揚陸船「Lci‐600」金剛隊伊361945年1月12日
護衛駆逐艦「アンダ-ヒル」多聞隊伊531945年7月24日
損傷輸送艦「カリ-ナ」天武隊伊471945年5月4日
護衛駆逐艦「ギリガン」轟隊伊3671945年5月27日
攻撃型輸送艦「マラソン」多聞隊1945年7月21日
大型駆逐艦「ロウリ-」多聞隊伊581945年7月27日

 

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