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児玉源太郎

印刷用ページを表示する更新日:2017年5月10日更新 <外部リンク>

児玉源太郎(1852〜1906)は徳山藩士児玉半九郎の長男、幼名を百合若、長じて健と称し、のち源太郎と改めました。
明治元年、献功隊の半隊司令士として東北方面に出征、翌2年箱館の戦いに参加し、凱旋後、京都河東伝習所に入りました。以後、陸軍に出仕して、4年少尉に任官し、7年の佐賀の乱(当時中尉)、9年の熊本神風連の乱(当時少佐)、10年の西南の役に出征して功がありました。
20年陸軍大学校長に就任、ドイツのメッケルの戦術を移入し、24年には欧州に差遣され、軍事教育を視察しました。25年には帰朝して陸軍次官となり、軍務局長を兼ね、日清戦争には大本営留守参謀長をつとめました。
28年、功によって男爵を授けられ、29年中将に進級、31年1月、第三師団長に補せられましたが、2月に台湾総督に転じ、その治績によって子爵に昇叙されました。33年、第4次伊藤内閣に入閣して陸軍大臣となり、そのまま桂内閣に留任、のち内務大臣および文部大臣を兼ねました。 36年、日露の開戦に備え、自ら地位を下って参謀次長に転じ、37年6月大将に進級、7月、満州派遣軍の総参謀長として帷幄の重任を果たしました。凱旋後、39年参謀総長に就任し、南満州鉄道株式会社の創立委員長を兼ね、朝野からその手腕を期待されていましたが、7月24日、牛込薬王寺前町の自邸で急逝しました。

【出典:徳山市史(下)】

児玉源太郎